コンテンツにスキップ

遠過ぎる石垣山 その1

1982年の夏、中学生だった私は初めて石垣山に登った。何となく入った郷土史研究会の活動で「城跡にでも行ってみるか」ということになり、場所を任された次第。ちなみに、顧問の教師を含めて郷土史に興味のある者は私だけ。2班あってもう片方は弥生の竪穴住居の1/1復元だった。

当時の石垣山はまだ公園化も全くしていない状況。麓に小さな看板があるだけでもありがたいという感じだった。入生田から箱根ターンパイクを突っ切るコースを顧問の自家用車で登坂するが、驚くほどの急坂。「こんなところに作って……確かに誰も攻められないだろうけど」と一同呆れ顔。城跡の中に入ると、杉林の中にゴロゴロ転がる巨石、螺旋に下る井戸曲輪を見て全員が「これは凄い」と息を呑んだ。

ちょっと気分がよくなった私は、いつも歴史系の書籍で言われる例の台詞を口にした。「この城は小田原城を一望できる要衝で、ここを占領された後北条氏の士気は下がったそうな」と。

だが、友人と顧問の反応は鈍い。

「確かに小田原の街を全て見渡せるけどなあ……遠いんじゃないかな」

「ここ(伝・二の丸)からだと左(八幡山)が遮られて見えないよ」

「むしろ風祭の奥の山の方なら、もっとよく見えるだろうに」

「夏場は霧も出るし、かえって見えなくなるんじゃないの?」

何とも否定的な意見であるが、言われてみると確かに「遠い」。小田原城の模擬天守展望台でも、

「あれが有名な一夜城だって」

「どこ? どれ?」

「矢印だけじゃ判らないな。えー、パンフレットだと『箱根ターンパイクの看板の上』らしい」

「え、あの辺の山? 遠いね。どれがどれやら……」

というやり取りを何度も聞いた覚えがある。

「だって、秀吉って物凄い大軍でびっしり小田原城を取り囲んだんだよね? じゃあ、もっと近くで作ればよかったんじゃないの? あそこだと、箱根から降りてないよね。何だかおっかなびっくりだよね?」

小田原近辺の住人の感覚だと、板橋で東海新幹線の高架ガードを過ぎた辺りから『箱根っぽく』なってくる(実際には、入生田と山崎の間が小田原市と箱根町の境界なのだが)。石材屋とビーバートザン(ホームセンター)の辺は小田原の周縁部という感覚だ。ちなみに後北条の頃からあったという小田原用水はこの近くから始まっている。

まあ確かにあの距離では、本当に『一夜城』な演出をしたとしても、当時の小田原住民には反応が薄かったんじゃないのか、と思える。関東初の総石垣作り! とか、杉原紙で白亜の漆喰に見せかけた! とか。やってもよく見えない。小峯や水之尾近辺にいた連中しか判らないかも。そもそも、全面石垣・漆喰と瓦という構造が関東にないので判りにくい。「何か変なもの作ってるけど、大丈夫かあいつら」ぐらいにしか思われないとしたら、秀吉もがっかりだろう。

小田原人にとっては、

「ターンパイクの上に凄い城を建てられた!」(石垣山城)

というよりは、

「陸上競技場の500メートル手前まで攻め込まれていた!」(羽柴秀次の荻窪仕寄)

の方がインパクトがあるように思う。

 

 

 

 

 

 

 

そう考えると、石垣山城はむしろ味方に見せるための城だったのかも知れない。街をすっぽり覆った小田原城外郭。それをさらに包囲した上方勢の陣地は広範囲に及ぶ。風祭・水之尾・天子台・荻窪・井細田・多古・今井を眼下に収めるには、石垣山ぐらい引いた位置取りが必要だったと。完成速度からいって、遠征に及ぶ前に築城位置は決まっていた可能性が高い。巨大な小田原外郭を事前に掌握していた羽柴方の情報収集力は凄まじいものがある。その一方で、15万という巨大な軍勢の集合体だからこそ、全軍の動きを監視する必要も出てきてしまった。軍記ものの記述だが、徳川方・織田方が翻意するという噂もあったようだし。

つまり、石垣山城は「あれだけ近くに本格的な城を築いた」というより「あれだけ遠ざけないと包囲軍が見渡せない」という点に凄みがあるのではないか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です