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北条氏政、木古葉の小代官・百姓中に徴兵規則を発布する

一当郷ニ有之者、侍・凡下共ニ廿日可雇候、行之子細有之間、悉弓・鑓・鉄炮何にても得道具を持、何時成共、一左右次第、可罷出事、

一此度若一人成共、隠而不罷出儀、後日聞届次第、当郷之小代官并百姓頭可切頸事、

一惣而為男者ハ、十五、七十を切而、悉可罷立、舞ゝ・猿引躰之者成共、可罷出事、

一男之内当郷ニ可残者ハ、七十より上之極老、定使、十五より内之童部、陣夫、此外者悉可立事、

一此度心有者、鑓之さひをもみかき、紙小旗をも致走廻候ハゝ、於郷中、似合之望を相叶被下事、

一可罷出者ハ、来廿八日公郷之原へ集、公方検使之前にて着到ニ付、可罷帰、小代官・百姓頭致同道、可罷出、但雨降候ハゝ無用、何時成共、廿八日より後天気次第罷出、可付着到事、

 付、着到ニ付時、似合ニ可持道具を持来、可付之、又弓・鑓之類持得間敷程之男ハ、鍬・かまなり共、可持来事、

一出家ニ候共、此度一廻之事、発起次第、可罷立事、

 右、七ヶ条之旨、能ゝ見届、可入精、愚ニ致覚悟候者、可行厳科、又入精候者、為忠節間、如右記似合之望を相叶、可被仰付者也、仍如件、追而、御出馬御留守之間、御隠居御封判を被為

 推候、以上、

[有効朱印]七月廿三日

木古葉 小代官

    百姓中

→神奈川県史 資料編3「北条氏政掟書写」(相州文書所収三浦郡増右衛門所蔵文書)

1585(天正13)年に比定。

 掟。
 一、当郷にいる者は、侍・凡下ともに20日雇うこととする。手立ての詳細はあるので、全員が弓・槍・鉄砲の何れかの武器を持ち、いつであっても連絡次第で出てくること。
 一、この度はもし1人でも隠れて出てこなかった場合、後日把握出来次第、この郷の小代官・百姓頭を斬首すること。
 一、総じて男たる者は、15~70歳で切って、ことごとく出て、舞々・猿楽の者であっても出てくること。
 一、男のうちこの郷に残るべき者は、70より上の『極老』・使者・15より下の児童・陣夫である。このほかはことごとく立つべきこと。
 一、この度心ある者は、槍の錆びを磨き、紙の小旗をして活躍するならば、郷内において、見合った望みを叶えて下さるだろうこと。
 一、出るべき者は、来る28日に公郷の原へ集まり、公方検使の前で着到してから帰りなさい。小代官・百姓頭が同道して出るように。但し雨が降ったら順延で、28日以降の天気次第で出て、着到をつけること。
 附則。着到する際、見合った武器を持って来て、これを記入する。また、弓・槍の類を持っていない男は、鍬・鎌などでも持って来ること。
 一、出家であっても、この度一巡りのこと、発起次第で立つこと。
 右の7箇条の旨、よくよく見届け、精を入れるように。愚かな覚悟をするなら厳しい罪に処す。また、精を入れ忠節をなすならば、右記の通り見合った望みを叶えると、仰せ付けられている。
 追記。ご出馬でお留守なので、ご隠居が封印の判を押された。

コメント 2

  • こんばんは。

    戦国関連本を読むと、しばしば「兵農分離が進んでいた織豊政権の軍隊に対し、農民兵主体の遅れた武田・北条などが敵うはずはなかった」などもっともらしいことが書かれたりしていますが、本当のところはどうだったのか?というのが最近気になっています。この史料など、末期の北条政権はかなり緻密な動員が可能になっていたことを物語るものではないでしょうか。逆に、織田信長の軍隊がどのように召集されていたか、実はあまり史料が残っていないとも聞きますし。だいたい、信長や秀吉の軍隊がそんなに先進的な常備軍であったのなら、武田や北条が絶対に軍を集められない(はず)の農繁期に戦争を仕掛ければ一発で勝てたんじゃないですかね。
    勿論、「緻密な」徴兵が可能であるという事実が領民の幸福につながるか否かは全く別の問題なのでしょうけれども。

    15〜70歳という動員年齢もかなり厳しい印象を受けます。ナチス・ドイツ末期の国民突撃隊も15〜60歳だったはずです。それにしても天正十三年当時、60歳を超える人はどれくらいいたのでしょうか。

    • コメントありがとうございます。ドイツでも15~60歳という例がありましたか。洋の東西を問わず、兵士はこの年齢が境目なのですね。

      この時の後北条氏はかなり思い詰めていましたから、70歳まで引き上げていたのでしょう。他の文書を見る限りでは、後北条でも通常は60歳が上限のようでした。

      60歳以上の人口については『人口から読む日本の歴史』(講談社学芸文庫)が参考になるかも知れません。個人的には、1~5%程度かと思います。

      いわゆる『兵農分離』も『刀狩令』も実態はそれほど徹底したものではないようです。出兵時期が本当に農繁期を避けていたのかは、アップする文書が増えれば傾向が判ると思いますが、まだサンプル数が足りない状況です。ただ、個人的には「出兵する農兵が足りなくなるから」というよりは、「農作物の刈り入れ時期に合わせて」という色合いが濃いように感じています。古文書を取り入れた解説書が毎年出ていますから、この辺も何れ答えが出てくるかも知れません。

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