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夫婦別姓の歴史的経過

『戦国を生きた公家の妻たち』 (後藤みち子著・歴史文化ライブラリー)を読んだところ、最近の日本で取り沙汰されている夫婦別姓に関して考察されていたのが面白かった。戦国時代になるまでの公家では、女性の地位が低く夫や子供と同じ姓を名乗れなかったという。現代とは逆で『別姓から同姓へ』という流れがあったのだ。夫婦同姓を可能にしたのが『正妻』という概念であり、政略結婚という手法だった。

『家』が現代でいう企業体を意味し始めていた戦国期。武家も公家も、変則的な末子相続から嫡長子相続が一般的になってくるが、嫡子は正妻が産むのが原則というスタイルを作り出すことで、嫡子には正妻の実家の支援も受けられるようになる。実際に文献に当たってみても、女性を介したつながりで活動していることが多い。

上掲書では例として、この頃普及し始めた風呂の風習を挙げていた。男性だけが行なっていた時は、気心の知れた2~3人の友人だけで月を見ながら適当に集まってダラダラ飲んでいた。そこに女性が入ったことで、実家の兄弟や姉妹を通じた縁戚なども多数呼んで定時開催するようになり、政治サロンとして機能するようになったという。何だか現代でもそのまま当てはまりそうな風景である。

外交に参加できる政略結婚は女性にとって一種の参政権であり、そのためには婚家の苗字を称す唯一の嫁=正妻であるという地位が必要だ。それまでの妻たちは単に子を産む道具とされていて、正妻も妾も区別がなかったという。この時、『正妻』というこれまでなかった存在を作るため、嫁と姑が団結して事に臨んでいる。正妻は当主と同等の地位を持ち、姑から嫁へ代々継承されるものである。そして、実家と婚家を政治的に結ぶ外交機能を担うという定義が徐々になされていく様子は興味深かった。

ここでは公家を扱っていたが、武家のほうが早く正妻システムを導入していたように思う。きっちり史料に当たった訳ではないものの、鎌倉後期には正妻と嫡男は確立されており、執権北条氏が有力御家人の正妻に自身の一族を送り込んでいたと理解できる。

ちなみに、現代の日本社会では恋愛結婚が至上であるため、「政略結婚は非人道的」という認識があるように思う。いわく「女性は政治の道具に過ぎない」と。ところが、恋愛結婚が見合い結婚を上回った1970年代以降、離婚率・未婚率が上昇している(見合い結婚の方が離婚率が低い)ことから考えて、恋愛結婚が日本人にとって自然で合理的な婚姻手法とは考えがたい。

16世紀に導入された夫婦同姓は、21世紀に入って新たな議論を呼んでいる。最早『家』は法人と同義ではなく、個人が大きな権限を持つ時代に突入した。家のシステムが変革される場に居合わせることが出来るならば歴史を調べる者として至福の限りである。

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