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神君伊賀越えず 1

歴史に「もし」が禁句なのは承知しているが、1つだけ興味を持っている「もしも」がある。1582(天正10)年6月、本能寺の変に巻き込まれた徳川家康は大坂から三河国まで脱出行を演じているが、この際に家康が殺されていたら……というものである。座興ということで、史料の検討や厳密な検証は抜いて思うまま書いてみよう。

家康の伊賀越えのルートや実態には諸説あるが、同行した穴山信君は混乱の中で落命しているだけに、あり得ない話ではない。6月2~4日までの移動中に死去したとしてみる。

まず、駿河・遠江・三河に政治的空白ができる。家康長男の信康は既になく、次男於義丸は8歳・三男長松丸は3歳であることから家中が混乱に陥ることは間違いない。家康肉親として異母弟久松康元が30歳の壮年で存在するものの、水野の血は引いても松平の血は入っていない。分立した松平庶家から擁立するとしても、東条・大給・桜井・深溝のどこから出すかで紛糾するものと思われる。長女亀姫の嫁ぎ先である奥平家もそんなに発言力がある方ではない。

そうなると動向に注目が集まるのが、浜松にいる今川氏真だ。1571(元亀2)年以降徳川家臣となり、駿河攻略では力を発揮して牧野城主となるものの1年足らずで任を解かれている。氏真が無能過ぎたという説もあるが、旧主氏真の台頭を家康が恐れたという考え方もできる。何れにせよ飼い殺し状態だった氏真がどう行動するかに、東海の動向がかかってくる。

三河・遠江・駿河はそのまま今川領だったことから、旧主として於義丸・長松丸の後見人として徳川家を束ねるのが最も可能性が高い。家康死亡時に随行者も死亡しているであろうから、徳川家のブレーンはほぼいなくなる(本多忠勝、井伊直政、榊原康政、酒井忠次、石川数正、本多正盛、服部正成、大久保忠隣、菅沼定政、本多信俊、阿部正勝、牧野康成、三宅正次、高力清長、大久保忠佐、渡辺守綱など)。「徳川」の主要人員が壊滅することで一枚岩ではなくなり、「十八松平」の時代に戻るだろう。氏真が緩やかに統合することは容易い。

東方面では、上野から信濃を経て甲斐に至った後北条氏は7月いっぱいで易々と作戦を終えるだろう。但し、甲斐平定前に上杉氏の南下攻撃を受けると思われるので、川中島に兵を貼り付ける必要があるのではないか。駿東に関しては事実上占拠という曖昧な状態を暫く続けるだろう。

ここで、1571(元亀2)年に決別した氏真と氏政が同盟するかどうかが問われる。私は可能性が高いと考える。氏真正室である氏政妹は健在であり、外交パイプとなりうること。上野・信濃・甲斐を入手した後北条氏としてはこれ以上の大規模な併呑は望んでいないだろうこと。氏真としても今川旧臣が糾合されるまでの軍事バックアップが必要であること。以上から、駿東郡の正式な後北条領国化を条件に、駿河・遠江・三河の今川氏再統治を氏政が全面支援すると推測する。

話が長くなってしまったので、2に続く……。

コメント 2

  • こんばんは。
    非常に興味深く、読ませていただいております。伊賀越えが失敗するかもしれない、というリスクはかなり高いものがあったでしょう。それに思慮深い家康公のこと、今自分が死ねば今川、北条ラインがつながるかも、という恐れは抱いていたかもしれませんね。「ここで死ぬわけには、いかん!」てな感じで。やはり、穴山殿の事は見捨てたに近いんでしょうか?武田好きとしては、少々気になる所ではあります。

    2も、楽しみにしております。

    •  コメントありがとうございます。穴山信君の死については、家忠日記で「切腹」と出ているのが一番信憑性が高いようです。切腹といっても、どのような状況だったかは不明で、一揆に追い詰められたのだとしたら、何故家康は無事帰還できたのか説明できないようです。研究者によっては、家康に切腹させられたとする方もいます。真相はまだまだ判らないようですね。

       現在2を考案中ですが、「家康いなくなったら色々変わるなあ」というのが今更判ってきて悩み中です。羽柴氏が長続きしないのは想定できるとして、対抗勢力は黒田・後北条・毛利・伊達のどこら辺になるかを楽しく考えています。

       またご感想などいただけますと励みになりますので、宜しくお願いします。

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