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北条氏政、長尾憲景の上野国中山攻略を賞す

任幸便呈一翰候、抑今度中山地、其方兼而如演説、早ゝ落居、誠感悦不少候、此上沼田口吾妻表一途有之様ニ、御稼可為肝要候、将又任現来、一樽一種、進之候、恐々謹言、 「表 ○」

正月六日

氏政(花押)

一井斎

→小田原市史「伊佐早謙採集文書十一」(北条氏政書状写)

1583(天正11)年に比定。

 便があったので一筆差し上げます。そもそもこの度中山の地を、あなたが以前主張していたように早々と落城させました。本当に感悦の少なからざるところです。この上は沼田口と吾妻方面で専心して、ご活躍することが大切です。そしてまたありあわせですが、一樽一種を進呈します。

コメント 1

  • […]  「南方衆」が後北条氏を指し、沼田・吾妻・中山が上野国であることは確実だろう。ところが、後北条方が中山城を押さえたのは1583(天正11)年と比定されている(抑今度中山地、其方兼而如演説、早ゝ落居)。また、永禄4年からは上杉輝虎が上野国を制圧しており、沼田も後北条方から失陥している。また、遠江衆と駿河衆が別々に甲府へ到着している。永禄6年頃に、東上野国を巡って武田氏と後北条氏が係争した事実はなく、また、今川氏が武田氏に一方的に加担した記録もない。そもそも、依田信蕃の活躍時期を考えると永禄年間というのはおかしい筈だ。 […]

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