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旧暦5月19日

 1560年の旧暦(宣命暦)5月19日は、新暦(グレゴリオ暦)で6月22日となる。ちょうど450年前のこの日、今川義元が尾張国鳴海原で敗死した。当日付けで合戦の模様を語った史料はない。その詳細は、この後最初の一報が発せられる日のエントリーに譲ることとしよう。
 ちなみに、これに先立つ6月11日は旧暦で5月8日に当たり、義元・氏真任官が下された日である。この任官を氏真は終生認めなかったという謎はあるものの、義元はこの日程を織り込んで尾張方面に出撃しようとしていたことは間違いないと思う。
 一方で、この年は空梅雨で、旧暦6月(新暦7月中旬)に入るまで日照りの様相を呈していた。とはいえ田植えの日限である半夏生は5月29日に迫っており、封鎖されたままの大高城を開放しなければ、敵方に対して大幅な妥協を強いられることとなる。この苦境を脱するための決意が義元の死につながっていたのではないか。
 以後、旧暦に合わせて織田・今川方の動きをタイムリーにエントリーする。旧暦の感覚がほぼなくなった現代ではこの確認作業も何らかの参考になると期待する。
※旧暦の設定は1560年に準ずる。2010年では旧暦5月19日が新暦6月30日になるなど、旧暦は閏月を含むために大きく日程がずれる。このため、1560(永禄3)年に合わせることとした。

コメント 2

  • こんばんは、はじめまして。
    マリコ・ポーロさまから、ご紹介されておじゃましました。
    旧暦で歴史的事実を顧みるというのは、その通りであると思いました。むやみやたらと戦をしているわけではなく、背景があってのことですから、それを現在の暦に置き換えてしまうと、意味をなさなくなるかも知れません。
    それにしても、当時は空梅雨だったのですね。米の出来不出来が、国力に大きな影響を与えた当時としては、看過できない事項であったでしょう。今回の出陣が、今川家の威光を示すという事とともに、天候も大きな要素であったというのがとても興味深いお話でした。
    歴史には興味がありますが、お察しのとおりまるでド素人です。これからも、黙ってお邪魔しているかとは思いますが、よろしくお願いいたしますm(__)m

  • コメントありがとうございます。もっと踏み込んで書くと、空梅雨というよりは旱魃だったのだと考えています。旧暦6月13日に雨が降り始めますが、今度は降り止まず、延々10月の収穫時期まで降雨が続きます。雨が上がった直後に上杉輝虎の大遠征が来て北条氏康に援軍を送ったら、今度は三河で徳川家康が叛乱……という切ない展開が氏真を待っています。
    「ド素人」というのは、偏見や無駄な知識がついていないニュートラルな状態。それに、史料や人物、遺構に出会って感激する余地がたくさん残されている状態ですよね。「まだ知らない・まだ見ていない」ということは、職業的な研究者はさておき、我々在野の歴史好きには宝物のような要素です[ニッ/]
    私の知識や体験は大したものではないのですが、少しでもお役に立てれば嬉しく思います。また、様々な視点からの意見も大変参考になりますので、コメントなどありましたらお気軽にどうぞ[にこっ/]

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