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経過報告02:史料の精査

 今川氏から見た桶狭間に関しては、ほぼ史料を網羅できたと自負している。但し、1559(永禄2)年以前の三河・尾張の状況に関しては、2009年6月刊行予定の愛知県史資料編10を待つよりない。この史料の入手によって、松平・織田・水野の各氏がどのように動いたかが判明するだろう。それまでは、既にアップしている史料の訳文を精査していく予定だ。
 現在の状況を俯瞰すると、キーポイントとなるがどうやら『高橋荘』(愛知県豊田市付近)となる見込みである。この地域がどの勢力に属し、1560(永禄3)年にどのような動きをしたかによって、いわゆる『桶狭間合戦』当時の政治地図は異なるだろう。私は、南半『衣領』はほぼ今川方であったものの、北側の伊保・猿投の領域は、美濃斎藤氏に連なるのではないかと予想している。また、1560(永禄3)年当時、今川方が武節に軍を置いていることを考えると岩村の遠山氏の関連も考えられる。
 2008年は『桶狭間合戦』を巡る言説が多数登場した。2009年1月に信長公記に関する著述が上梓されることも合わせると、百花繚乱の趣がある。上杉氏との関連に着目したもの、正面攻撃にこだわったもの、背面奇襲の新説などなど、様々なアプローチが試みられており、興味は尽きない。惜しむらくは、どの著述も信長公記を元に考察している点である。信長公記の全てに史料価値がないと断定はしないが、『桶狭間合戦』の描写はまるで近世軍記物のようであり、信頼性はないと判断している。この軍記物的描写が論理的に破綻しているため『桶狭間合戦』には矛盾が生じ、多数の推論を生み出すこととなったのではないだろうか。
 何れにせよ、本サイトでは得られる限りの史料を精査して後、信長公記の検討に入る予定でいる。

コメント 19

  • それは、おかしいのでは?信長公記の記述が信用できるというのが大勢ですけど?
    守山、瀬戸(品野)、日進(岩崎)は、旧松平領だった時代もあり、今川方と解釈する人がいたり。実際は、織田方。
    三河山間部は、武田信玄来襲時にも徳川から武田へ就いた山家三方衆がいる。豊田市近辺との豪族とは、松平信光時代から対立しているし、家康独立時も攻略対象になっている。どう考えても織田方。今川松平の力が直接及びにくい地域。
    刈谷、豊田、安城の矢作川以西は、織田信秀の時代に一度服属している。
    今川方であるはずがない。
    書状という断片的なモノをつなぎ合わせて推測し歴史が作れるなら、歴史書の存在意義はないし、古事記や日本書紀も信用できないということになる。

  • 高村 2008/12/16@23:21:13
     私が今川氏が好きかというご質問ですが、好き・嫌いではなく興味を持っている対象ですね。今川氏を贔屓にしている訳でもありません。
    以前あなたは、今川を贔屓にしていない、興味がある、と言明しているにもかかわらず、1級史料の信長公記を否定し、今川に有利な状況を作り出そうとしていますよね?
    おかしくないですか?私が質問した通りだったではないですか。
    明治以降の歴史学は、徳川幕府時代の編纂物の全否定を始めていますが、書状の真贋の判定もなしに、諸家に伝わる書状の写しという断片的なモノから類推して、史実を捏造しているだけでは?
    徳川実紀、改正三河後風土記の作者の成島は、家譜なども出典一覧表に掲載していますので、歴史書には、家譜(大名家の主張)も反映されています。

  •  コメントありがとうございます。ご指摘の諸点についてご回答します。
    1『信長公記』の信憑性
     同書全部に疑義を呈しているのではなく、首巻「今川義元討死の事」について疑問を持っています。端的に申し上げると、今川義元が討ち死にした合戦を「天文廿一年壬子五月十七日」としており、諸史料が指し示す1560(永禄3)年と8年の差があります。干支を記入していること、3回も書いていることから、首巻記述者が意図的に書き記したことは間違いのないところでしょう。首巻には写本しか存在しないため、詳細は後日を俟つよりないと考えています。また、暴風雨直後に低湿地より高所の今川陣地に突入したことになっていますが、どのような用兵を行なったかの記述がありません。この点は未だに解明されておらず、研究者諸氏が様々な論考を行なっていますが決め手がありません。これは『信長公記』の記述は史実であるとの前提に立つならば『謎』となりますが、そもそも当該記述が史実ではないと判断するならば問題はありません。
     その他『信長公記』首巻には疑問となる箇所がいくつかありますが、1次史料が揃った段階で考察したいと思います。
    2西三河の帰属
     ご説明いただいた典拠が不明なので大雑把なお答えになりますが、本サイトにアップした諸史料によると菅沼氏・鱸氏・奥平氏・松平氏ともに織田氏と今川氏のどちらに帰属するか不安定なところはありますが、永禄初期は今川氏帰属でほぼ統一されているようです。高橋荘北部猿投近辺に関しては、永禄9~10年に尾張から攻撃されている史料があり、美濃斎藤氏との関係が濃かった可能性があります。
    3歴史書の必要性
     『記紀』の記述にどの程度信憑性があるかは、今後の考古学の検証を俟つよりないでしょう。私は古代について詳しくはありませんが、記紀の鵜呑みではなく、考古学を含む多数の視点からの検証が試みられているのではありませんか?
     何れにせよ、後世よりは同時代、編纂されたものよりは直接記述されたもの、というのが文献史学におけるセオリーだと考えております。同時代の直接史料と矛盾するのであれば、いかにまとめられた史書であれその存在意義は限りなく低いと思われますが、如何でしょうか?
    ※矢作川以西が織田方とのご指摘ですが、沓掛・鳴海・大高の存在はどのようにお考えでしょうか。史料に基づいてご教示いただければと思います。

  •  こちらのコメントは状況が掴めず困惑しております。『信長公記』の記述を信頼しないことと「今川に有利な状況を作り出そう」ということは、どのように関係するのでしょうか……。そもそも、「今川に有利な状況」とはどのような事柄を指すのが把握できていません。織田方の史料が少ないのは、管見書籍において見当たらなかったためです。私が見つけられていない情報がありましたらご教示下さい。積極的に採集したいと思っています。
     『徳川実紀』に1560(永禄3)年の記述があるかは知りませんので、こちら詳細をお教え戴ければと思います。『改正三河後風土記』に関しては、ベースとなった『三河後風土記』が本当に存在するか不明だったと記憶しています。成島司直・沢田源内は何を元に改正したのでしょうか。近世大名家の家譜を参照したとのご指摘ですが、寛永重修諸家譜での水野氏系図では、忠政と近守の生没年に矛盾が生じています。
     また、史実は捏造できるものではないと思います。歴史研究において、『史実=実在したもの』であり、研究によって少しでも史実に近い仮説は提起できるものの、それが仮説である以上史実ではありません。
     1次史料が史実に最も肉薄した時間に生起したものであるとするなら、典拠に1次史料を用いていない近世の史書のほうが史実に遠いのではないでしょうか。1次史料にも偽文書は存在することと思いますが、近世史書より確度は高いかと思います。

  • 今川研究家は、トンデモしかいないと思っているので、
    徳川幕府の歴史書を全否定するなど、自身が非常識を露呈しているわけで、
    トンデモ研究からは、何も生み出さないし、
    影武者徳川家康のような捏造。武功夜話のような捏造。
    になるんだろな。
    できたら、さっさと結論出してくれますか?
    信長公記を否定しているあなたの暴論が世間一般の支持を集めることはないですよ。
    1次資料をまともに提示している姿勢はいいですが、それを根拠にトンデモ説を開陳するとは、残念ですね。

  •  僭越ながら、おっしゃっている内容に典拠が伴っていらっしゃらないので何ともご回答のしようがないというのが正直なところです。歴史を調べる上でそれは前提となることだと信じておりますが、何か間違っているでしょうか? 「信長公記の記述が信用できるというのが大勢」ですとか「世間一般の支持を集めることはない」ということを繰り返し主張されているようですが、歴史を研究対象とする以上は、典拠提示と論証が第一ではありませんか?
     私が行なっていることを否定されるのであれば、まずは典拠をお示しいただき、論点を明確にして下さい。『武功夜話』はともかく、『影武者徳川家康』は時代小説ですから「捏造」という表現はふさわしくないと思いますよ。
     『信長公記』首巻の信憑性に疑義を呈している論拠は提示しています。年月日の記述が8年も異なっている点、低地から高地への攻撃部分の記述がが現実的ではないという点です。
     また、近世史書を頭ごなしに全て否定している訳ではありません。信用していないだけです。まずは同時代の1次史料を精査して、試論の骨格を構成すべきだとの判断で作業を進めています。
     ちなみに、結論を急げという趣旨をコメントされていますが、あいにくまだ結論はありませんし、試行錯誤の結果として結論はないかも知れません。残存史料の限界はありますから、無理に結論を出すことは控えたいと考えています。言うまでもないことですが、結論ありきで検証を進めている訳でもありません。
     文脈より、『あ』というお名前でコメントいただいている方と同一人物との前提でご返答しております。もし違っていたらお申し出下さい。

  • 一言。
    [いやー/]『信長公記』首巻の信憑性を疑われる論拠のうち、「低地から高地への攻撃部分の記述が現実的ではない」ということは、そのような具体的な記載はないようですが………。
    『信長公記』は、信長が山際まで進出したとは書きますが、「低地から高地へ」とは記載していないようです。
    藤本正行氏がそのように解釈できるという可能性をしめされているだけではないのでしょうか。
    ですが、藤本氏自身も「低地から高地へ」とは言っていないようですよ。

  •  ではどのように解釈可能ですか? ご説伺えればと思います。
     原文には「山際まで御人数寄せられ侯ところ、俄に急雨、石氷を投げ打つ様に、敵の輔に打ち付くる。身方は後の方に降りかゝる。沓掛の到下の松の本に・二かい三がゐの楠の木、雨に東へ降り倒るゝ。余の事に、熱田大明神の神軍がと申し侯なり。空晴るゝを御覧じ、信長鎗をおつ取つて、大音声を上げて、すは、かゝれゝゝと仰せられ」と記述されています。織田信長の行動はここまで詳細に記述されていますが、この部分でだけ移動の記述が抜けているということでしょうか。もしそうならば、何故でしょうか? 「そうでなければ織田方が勝てないから」というのであれば、結果を知った人間の史料操作になってしまいます。
     「具体的な記述がない」とのご指摘でしたので、少し細かくご説明します。
     今川義元は「おけはざま山に、人馬の休息これあり」と記述されています。織田信長は家臣に「脇は深田の足入り、一騎打の道なり。無勢の様体、敵方よりさだかに相見え侯」と反対されながらも「ふり切つて中島へ御移り」、更に家臣に制止されたものの「中島より又、御人数出だされ侯」のあと「山際まで御人数寄せられ侯ところ」となっています。この直後、暴風雨に引き続き戦闘描写に移ります。ごく普通に考えるならば、今川義元は桶狭間近辺の丘陵地帯におり、織田信長は中島から東に移動して麓まで来た段階で暴風雨に遭遇、その後丘陵地帯に攻撃を開始したことになります。
     織田方は今川方に丸見えの状態で移動し、足場の悪い低地からぬかるんだ斜面を登り攻撃を開始。勝てる要素は一つもありませんが、その後一方的に今川方を攻撃しています。これを講談として考えるならば劇的な場面転換となるでしょうが、とても現実的な記述とは思えません。単純に、『信長公記』のこの部分の記述は信憑性が低いと判断すればよいのではないでしょうか?

  • 長公記の全てに史料価値がないと断定はしないが、『桶狭間合戦』の描写はまるで近世軍記物のようであり、信頼性はないと判断している
    >>>>>>>>>>
    確実にアタマいかれてますね。
    この時点でまともな資料解釈ができないことを露呈している。
    450年前のことなんて、現代人には調査困難。
    江戸幕府に公認されている歴史書を底本に置くのは当然。
    刈谷の水野は織田方だが、親松平のため今川方の振りもしていた。
    ただそれだけ。

  •  『信長公記』が徳川政権公認の書物という趣旨かと思いますが、どこから情報を得られたのでしょうか。ご教示いただければと思います。
     また、同時代史料よりも、傍証のない後世の史書を尊重するというお考えでしょうか。ましてや、演劇・出版に関しては数々の統制を行なった徳川政権に対して、「江戸幕府に公認されている歴史書を底本に置くのは当然」とおっしゃるのは無理がありませんか? 松平家が新田氏の支族だという説も本気で考えていらっしゃるのですか?
     450年前の事柄を調べるのが困難なのは充分理解しています。以前コメントでご返答したように、史実を見極めることは不可能で、史料群と整合性のとれる仮説を組み立てるのが精一杯だろうと考えています。それでも調べてみようというのが本サイトの主旨となります。ご理解のほどお願いします。
     「刈谷の水野は織田方だが、親松平のため今川方の振りもしていた。ただそれだけ。」という文章がよく把握できなかったのですが、信長公記と何か関わりがあるのでしょうか? また、典拠はありますか?
     確認のためのご質問を何度も繰り返してしまっていますが、いただいたコメントが全て傍証に乏しく、私からの質問で終わってしまっている点が多数あります。史料部分・史料に基づく解釈部分・解釈をつなげた推測が混在しているのではないかと思われます。一つずつ議論していくためには上記明快にコメントをお願いします。

  • 徳川実紀の引用書目
    安土記、信長記。異本によって、名称が違う。
    これが信長公記のことです。

  • あんたが、徳川実紀も読んだことのないバカだって露呈したな。
    著者の成島は、奥儒者(将軍の侍講)で、超一流の学者だよ。
    人にモノ尋ねる態度はひどいし、自分で調べる努力もしない。
    今川家に関する信頼のおける同時代史料は皆無。
    信長公記。大久保の三河物語。松平家忠日記。あと、公家や寺社の日記。が信頼のおける。
    江戸時代の軍記・家譜家伝の類は、ほとんど信憑性がない。武田・上杉・北条の軍記がそう。
    甲陽軍鑑は、同時代の平戸藩主の松浦鎮信によって、偽書と断定されてる。

  •  どうやらコミュニケーションがとれていないようです。私がご質問したのは、ご発言にあった「刈谷の水野は織田方だが、親松平のため今川方の振りもしていた。ただそれだけ」という部分に対しての以下の案件です。
    1)その典拠は何か?
    2)そのことが『信長公記』とどのような関係を持つのか?
     典拠は徳川実紀であり、その書中に「信長公記にはこのように書かれている」という意味の文言があるのでしょうか。ご説明いただければ幸いです。
     徳川実紀は確かに読んでいませんが、あの史書は基本的に近世の事柄を記したものではありませんか? また、近世初期の直接史料も欠いていたと記憶しています。その徳川実紀が引用しているからというだけで『信長公記』叙述の正当性を盲信するのは疑問です。とはいえ、私は該当書を読んでおりませんから何とも言えません。何れ読む機会があればご意見参考にして思料してみます。
     あなたが「超一流の学者だよ」とおっしゃる成島司直が改選したとされる『改正三河後風土記』の引用書目には甲陽軍鑑があります。「甲陽軍鑑は、同時代の平戸藩主の松浦鎮信によって、偽書と断定されてる」という件とどのように関係するのか判断に苦しみます。
     また「江戸時代の軍記・家譜家伝の類は、ほとんど信憑性がない」とお書きですが、以前のコメントでは「徳川実紀、改正三河後風土記の作者の成島は、家譜なども出典一覧表に掲載していますので、歴史書には、家譜(大名家の主張)も反映されています」と書かれています。素直に読むと、徳川実紀、改正三河後風土記には信憑性がないとなってしまいますが……。
     「自分で調べる努力もしない」とおっしゃる点も多々反省すべきところですが、そもそも「それは、おかしいのでは?信長公記の記述が信用できるというのが大勢ですけど?」というコメントであなたが始められた議論です。『信長公記』に対する2つの疑問点は提示しておりますので、その反論があるのであれば、典拠と論旨を明快にしていただかないと話が進みません。

  • 高村様はじめまして、
    >織田方は今川方に丸見えの状態で移動し、
    >足場の悪い低地からぬかるんだ斜面を登り攻撃を開始。
    >勝てる要素は一つもありませんが、その後一方的に今川方を攻撃しています。
    >これを講談として考えるならば劇的な場面転換となるでしょうが、
    >とても現実的な記述とは思えません。
    低湿地から高地への攻撃では、勝てる要素が一つも無い。
    というのは、高村様の個人的な思い込みですよね(^^)
    信長公記を読めば、このとき信長軍か勝てた理由が推測できます。
    1.切り捨てにせよ。と命令した。
    当時の普通の戦闘では、敵を無力化した後、首を切り落として、
    上役の所へ持って行き、記録を取ってもらうという一連の流れがあります。
    つまり、普通の戦闘では、敵を無力化する以上に、
    手柄を確認するための行為に、時間と労力がかけられているので、
    分取り禁止が徹底できれば、効率良く敵を殺す事に専念できる事になります。
    2.信長公も馬から下りて戦った。
    信長公も馬から下り、若武者どもと先を争い、敵を突き伏せ、突き倒された。
    と信長公記には書かれています、殿様が前線で戦っている以上、
    お付きの人は殿様以上に積極的に戦わざるを得ないわけで、その結果、
    馬回り、お小性衆の負傷者、死者は数え切れぬほどであった。
    というほど、信長軍は積極的に攻め込んでいる事が書かれています。
    3.義元は前線を見捨てて逃げ出した。
    義元側でははじめ三百騎ばかりが輪を作り義元を中に囲んで退いていった。
    と信長公記に書かれています。
    三百騎というのは、馬に乗った兵の数なので、
    全体の人数では、最低でも千人を越す部隊になります。
    また、輪を作り義元を中に囲んで組織的に退却している事から、
    義元は、この三百騎の旗本隊が信長に攻めかかられる前に逃げ出しているわけで、
    前線の兵士のやる気が出る行為とはとても思えません。
    また、今川軍の主力戦闘部隊は、前日に大高城に兵糧を入れた後、
    丸根、鷲津の両砦の攻略などをしているので、
    義元が率いていた本隊は、二万対二千などと一般に思われているほど、
    信長軍と大きな兵力差はなかったと考えたほうが自然です。
    さらに、他の合戦の例を見ても、
    姉川の合戦で、織田軍の13段の備えのうち11段まで打ち破られた。とか、
    関ヶ原の合戦で、島津軍が敵陣の中央突破して帰国。とか、
    大坂夏の陣で、真田幸村に攻められて家康の本陣が大混乱に陥ったり。
    しているので、
    たとえ低湿地から高地への不利な攻撃でも、
    中央突破の総攻撃を仕掛ければ、敵陣を崩す事は十分可能だと思います。

  •  コメントありがとうございます。『信長公記』の記述に信憑性がないという命題で諸々ご意見いただいたので、のちほど私の論点をアップしてみようと思います。
     いただいたコメントは推論構築の参考といたしますね。ただ、考えるほどに『信長公記』の信憑性がなくなっていく気がしています。少しご説明してみます。
    1.切り捨てにせよ。と命令した。<について
     頸注文を作成することは直接の勤務評定ですから、これを禁止するのは「この戦闘では全体の評価しかしない」ということになってしまいます。よほどのことでなければ、家臣は納得しないのではないかと思います。ましてや、事前の作戦会議を行なわず家臣から嘲られたのであれば「いきなり言われても」という反応になりそうです。
     同時に、個別の勤務評定を行なわないことで、多数の者は「自分は手を抜こう」と考えるのではないでしょうか。上の立場から見れば全体で勝てばよいのですが、下の立場からすれば手を抜いた者勝ちのシステムになってしまいます。
     もう1点、頸の打ち捨てというのは近世成立の軍記物でしか見た覚えがありません。頸が一つでも丁寧に感状を発行しているものは多く見ました(このサイトにもアップしていますので、『頸』で検索してみて下さい)。
     更に古文書を調べなければなりませんが、頸の打ち捨ての実在性・実効性は疑問に思いました。
    2.信長公も馬から下りて戦った。
    3.義元は前線を見捨てて逃げ出した。<について
     この点も2面性があるかと思います。信長が戦闘に参加するというのは、忠誠心の高い人間には効果があると思います。ただ、当時の合戦では「総大将が討たれると負け」となるパターンが多いため、信長を警護しつつ戦わなければなりません。また、不測の事態(鳴海城からの攻撃・別働隊の出現など)が発生した際に、戦闘状態にある信長が的確に判断・指示を行なえるかは疑問です。私的な感想ですが、自分が前線にいたなら、信長が戦闘に加わるのは迷惑に感じてしまいます。
     義元の退却は、私の解釈は逆でした。『信長公記』の記述による限り、遅過ぎたのだと思います。義元本陣は組織的な退却を行なっていますが、その直後に攻撃を受けています。本陣以外の今川方が一瞬で寝返って攻撃してきたか、彼らが一瞬で消滅したのでない限り、いきなり本陣が攻撃されることはない筈です。ゆるやかに解釈するならば、『信長公記』の記述は今川方戦線崩壊を省略したと考えることも可能です。もしそうならば、義元はぎりぎりまで戦場に留まっていたと考えられないでしょうか。
     何れにせよ根本的な疑問点としては、自身が戦闘に参加した信長が生き残り、組織的撤退を行なった義元が敗死したということがあります。
    4.兵力について
     『信長公記』によると、「御敵今川義元は、四万五千引率し、おけはざま山に、人馬の休息これあり」と書かれていますから、その信憑性を信じるならばここは素直に45000名の人員がおけはざま山にいたと考えるべきでしょう。対する信長は2000名以下と書かれています。22.5倍の兵力差ですね。
     この点はさまざまな研究者があれこれと解釈を加えていますが、信頼性の高い史料であればそのまま読むべきではないかとかねがね思っていました。
    5.他の事例について
     関が原・大坂夏の陣の件は史料が調べられておりません。よい史料がありましたら参考にしますのでご紹介いただければと思います。西南戦争末期の西郷軍は200名程度になってからがかえって善戦したという話は読んだことがあります。
     姉川合戦の織田方苦戦については、『信長公記』では記述がありません。『改正三河後風土記』には書かれていますが、同書は作者不明の史書ですから『信長公記』のほうが相対的な信頼度は高いと思われます。ただ、『信長公記』も信長に都合の悪い事柄は記述しない例がありますので何とも言えません。
     私も色々と知らないことがありますので、今度もコメントしていただけると嬉しく思います[にこっ/]

  • まだ、やってたのかよ。呆れる。
    自分に都合の悪い信長公記は、資料価値がない?????
    あんたにそれを決める権利はないだろ。。。。
    改正三河後風土記は、原本を幕府の奥儒者の成島司直が、大久保の三河物語と松平家忠日記で校正したもので、信頼の置けるもの。

  •  コメントありがとうございます。『信憑性がない』という判断は、該当史料を精査して極力客観的に述べております。誤っている論点がありましたらご指摘下さい。
     『信長公記』のうち首巻の信憑性を支持されてのコメントだと思いますが、『改正三河後風土記』、『三河物語』それぞれに記載内容が異なります。
    『信長公記』(首巻成立年不明・本巻は1610(慶長15)年以前)の今川義元討死描写
    日時:1552(天文21)年5月19日
    状況:おけはざま山に布陣したところ、暴風雨の後正面突破される
    『三河物語』(1622(元和8)年成立)の今川義元討死描写
    日時:1560(永禄3)年5月19日
    状況:不明地(棒山近辺?)にて食事中のところ、豪雨によって視界を遮られている状況で攻撃される
    『改正三河後風土記』(1837(天保8)年成立)の今川義元討死描写
    日時:1560(永禄3)年5月20日
    状況:桶狭間田楽が坪にて二日酔いのところ、前夜からの豪雨の中を奇襲される。織田方は前日中に背後の山に迂回していた
     どちらを採られるのでしょうか。また、その論拠もお示しいただけますか。
     ちなみに、『家忠日記』の記述年次は1575(天正3)年から1594(文禄3)年であり、5~6歳だったと思われる1560(永禄3)年の記述は勿論ありません。

  • http://oshiete1.goo.ne.jp/qa605248.html
    あんたは、バカか?
    家忠日記増補追加を知らないのか???
    改正三河後風土記の桶狭間戦役でも出典が引用されているが。
    成島は、全部、文中で、家忠日記と記載しているが、当然増補追加も含むでいる。

  •  『家忠日記増補追加』を既知ですが、これは松平家忠の孫である忠冬が著述したものです。家忠本人が記述した同時代史料である『家忠日記』より史料価値は劣るものと判断しています。
     こちらも他の史書と並べてみますが、どれも内容が異なっています。
    『家忠日記増補追加』(1663(寛文3)年成立?)の今川義元討死描写
    日時:1560(永禄3)年5月19日
    状況:不明地にて酒宴中、突然の豪雨の中を奇襲される。織田方は善照寺から二手に分かれ、背後の山に迂回していた
     強いて言うならば、『三河物語』と『家忠日記増補追加』が類似しており、日時も1次史料と適合します。ただ、少なくとも『信長公記』と『改正三河後風土記』は全く異なる記述内容です。ご説だと両方支持されているようですが、どのような判断によるものでしょうか。

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