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妙法寺記・勝山記、1492(明応元)~1504(永正元)年の記述

1492(明応元)年

北条御所御遷化

 北条御所(堀越公方足利政知)が死去。

1493(明応2)年

駿河国より伊豆へ打入也。

駿河国から伊豆国へ出撃した。

1494(明応3)年

三月十六日合戦ニハ。武田彦八郎殿負玉フ。大蔵大輔打死。同山中殿打死也。此年藤沢道場焼ル。同當麻道場焼ル。

 3月26日の合戦で武田彦八郎殿が負傷なさり、大蔵大輔、山中殿が戦死した。この年藤沢道場(時宗清浄光院)と当麻道場(時宗無量光寺)が焼かれた。

1495(明応4)年

御所嶋へ落玉フ。此年八月伊豆ヨリ伊勢入道甲州打入。鎌山ニ陣ヲ張タレドモ。和談ニ而引反ス。

 御所(足利茶々丸)が島へ落ち延びられた。この年8月に伊豆国から伊勢入道(伊勢宗瑞)が甲斐国へ出撃。鎌山へ陣を張ったが、和睦して引き返した。

1496(明応5)年

北條君武州ヨリ甲州都留郡吉田正覚庵ニ移リ玉ヒテ。富士へ御出。此年。伊勢入道ノ弟弥次郎七月郎等太敷共ニ打死ス。

 北条君(足利茶々丸)が武蔵国から甲斐国都留郡吉田の正覚庵へ移動なさり、富士へお出でになった。この年、伊勢入道の弟弥次郎が7月に多数の郎党と共に戦死した。

1499(明応8)年

此年霜月王流サレテ三嶋ヘ付玉フ也。早雲入道諫テ相州ヘ送賜也。

 この年の11月、王が流されて三島へ到着なさった。早雲入道(伊勢宗瑞)が諌めて相模国へお送りした。

1504(永正元)年

駿河平ニ伊豆ノ国勢向テ伊豆勢負ル也。経木ヲ取テ数ス四万人打死スル也。

 駿河平へ伊豆国の軍勢が向かって、伊豆勢が負けた。経木を取って数えたところ4万人が戦死していた。

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