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北条氏康、太田美濃守に佐竹氏と連絡したことを弁明する

自白川、去此被指越脚力候、左衛門大夫取次候、返札懇調遣候、其方へも一札被届候哉、不思寄子細候、向後者有間敷之候、惣而佐竹此方通融、雖無所詮候、自遠国難去被申越候之間、可為一旦之通融之由、申断候、以此筋目、可有御返答候、恐々謹言、

四月四日

氏康(花押)

太田美濃守殿

→戦国遺文 後北条氏編「北条氏康書状」(白川文書)

1556(弘治2)年に比定。

 白川より飛脚をお送りになって、左衛門大夫(北条綱成)が取り次ぎました。返信を丁寧に仕立てて送っています。あなたにも書状が届きましたでしょうか。思いも寄らぬ子細で今後はないでしょう。大まかに申すと佐竹とこちらが通じているということです。詮ずる所がないとはいえ、遠い国から去りがたく申し越しているので、一時的に通じることとして承諾したのです。この方向でご返答いただけますでしょうか。

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