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今川氏真、野々山四郎右衛門尉が岡崎に同心しなかったことを顕彰

参州細谷代官并給分五拾貫文之事

右、先年依吉田令内通忠節被出置、任先判形両通之旨領掌了、次代官徳分代方六貫八百文・米方四斗、同陣夫壱人之事、是又如年来可令所務候、縦彼地為知行自余江雖出置之、右之給恩五拾貫文并代官徳分米銭・陣夫等之事者、以田地割分之可令扶助也、殊今度岡崎逆心之刻、出人質捨在所無二為忠節之条、永不可有相違者、守此旨弥可存忠功者也、仍如件、

永禄四 辛酉年

九月廿一日

氏真(花押)

野々山四郎右衛門尉殿

→愛知県史 資料編11「今川氏真判物」(野々山千萬氏所蔵文書)

 三河国細谷代官職とその給料50貫文のこと。右は、先年吉田より内通させた忠節によって出し置かれるもので、先に出された判形2通のとおりに掌握しているものである。次いで代官の所得分として、金銭納6貫800文と米納4斗、陣夫1人があるが、これもまた年来の通り所務させるように。たとえあの土地が他へ知行地として出し置かれることとなっても、右の給恩50貫文と代官所得の米と銭・陣夫などのことは、田地の割分をもってこれを扶助する。ことにこの度岡崎が反逆した際には、出していた人質を捨てて在所で無二の忠節を行なってくれたので、永く相違のないよう保証する。この旨を守りいよいよ忠功を立てるように。

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