北条氏繁、鶴岡八幡宮に制札を出す
鶴岡并御門前中横合非分令停止事、 右、違犯之族之者、註交名、急度可有註進之状、仍如件 永禄四年 辛酉 三月五日 康成(花押) 鶴岡 御院家中 →-戦国遺文 後北条氏編「北条康成(氏繁)制札」(鶴岡八幡宮文書) 鶴岡八幡 …
鶴岡并御門前中横合非分令停止事、 右、違犯之族之者、註交名、急度可有註進之状、仍如件 永禄四年 辛酉 三月五日 康成(花押) 鶴岡 御院家中 →-戦国遺文 後北条氏編「北条康成(氏繁)制札」(鶴岡八幡宮文書) 鶴岡八幡 …
内藤衆何十騎、かち者いか程馳集候、着到を付、急度可申越、於今度諸人不走廻而不叶候、自戦與云、為御国與云、無昼夜嫌、稼可走廻申、内藤同心衆普請稼候者、無用捨可記上申、只今役所普請ニ極候、昼夜共ニ可致之、猶遠山新三郎ニ被仰出 …
通説を採用した歴史解説でよく書かれているのが「合戦時に参集した人数の大半は農民を中心にした非戦闘員」という記述である。その根拠が判らなかったので、1561(永禄4)年の大藤隊を調べる際も同時代史料で検討する。 正規兵 …
越後方と激戦を繰り広げた大藤隊の兵員数を検証する。 年未詳の『役帳』における諸足軽衆の役高を表にまとめた。 氏名 役高(貫文) 規定の人数 1人辺りの貫文 実際の人数 1人辺りの貫文 大藤式部丞 320.7 193 …
大藤隊が参戦する前に、既に越後軍は小田原近くまで達していた模様である。1561(永禄4)年時の文書から以下の事柄が判る。 3月3日 越後衆が当麻宿に着陣していると報告(氏照書状) 3月10日 小畑源太郎が籠城戦で活躍し …
同時代の一次史料だと、今川方の兵数を明確に記載した書状は見つけられていない。参考として、地域と大名は異なるが史料が多数残る後北条氏の場合を取り上げる。特に参考となるのは、戦闘専門の集団と思われる大藤氏だ。この足軽集団は …
由木上下之強人相談、敵動付而之出合可討留、万乙忠信申者ニハ、随望恩賞可被下、此旨各ニ為申聞、可相稼者也、仍如件、 酉 正月廿一日 横地 奉 小田野源太左衛門尉殿 →-戦国遺文 後北条氏編「北条氏照朱印状写」(静嘉堂本集古 …
於足立郡望地一所可進置候、今度於玉縄、尽粉骨、可抽忠信事肝要候、仍状如件、 辛酉 三月三日 氏康(花押) 大平清九郎殿 →戦国遺文 後北条氏編「北条氏康判物」(大平文書) 1561(永禄4)年に比定。 足立郡で望む地所 …
就此度河越籠城赦免条ゝ、 一、借銭・借米徳政之事、 一、本意之上、於忍・岩付領内、望地可出置事、 以上 右、今度当方安危砌候条、軽身命抽而可走廻者也、仍状如件、 十二月二日 氏政(花押) 氏康(花押) 池田安芸守殿 →戦 …
預御状、令本望候、佐白一和、以 上意如形無事簡要候、其方御馳走之由、使者申事候、弥御忠信此時候、当口取乱候、於備者可御心安候、何様以使可申候、恐々謹言、 十一月十六日 氏康(花押) 那須殿 →戦国遺文 後北条氏編「北条氏 …