某(北条氏政?)、某(上杉輝虎)に駿河の戦況を伝え活躍を要請する
廿六日之一札、昨晦日到来候、抑自當府之誓詞、松本請取、越山候哉、殊誓詞到来、則時ニ可為出張旨、誠以簡要候、畢竟其方馳走故候、弥無手透被打出候様ニ、可被相稼候、将亦如度ゝ申候、追日当陳任存分候、去廿八於山手懸合有之而、信玄 …
廿六日之一札、昨晦日到来候、抑自當府之誓詞、松本請取、越山候哉、殊誓詞到来、則時ニ可為出張旨、誠以簡要候、畢竟其方馳走故候、弥無手透被打出候様ニ、可被相稼候、将亦如度ゝ申候、追日当陳任存分候、去廿八於山手懸合有之而、信玄 …
善徳寺・天用院越進処、御入魂之由、本望候、殊越へ参苻之儀、余寒雪風之時節難叶付而、松石越山之由候、乍御大儀令満足候、薩埵陣中之様子、山之上之人数半覆へ蹈下之由申来候、去廿六息新太郎者共五六十騎、興津河原迄乗下、敵小荷駄送 …
「伊波知行之書立」 百九拾壱貫五百文 富田 九拾壱貫六百文 生沢 七拾壱貫文 宮分 四拾九貫六百卅二文 杉崎分 卅九貫百文 千津嶋之内 三浦分 以上四百四拾弐貫八百卅二文 此人数 廿八人 此内六騎馬乗 大学 …
如毎年玉縄城米銭百八十文、此米貮斗六升ニ合、但当納法百文ニ一斗四升目積也、当月晦日を切而、小田原付越、安藤豊前ニ可渡之、竹千代殿御飯米ニ被進者也、仍如件、 丙寅 壬八月十日 田名 百姓中 →戦国遺文 後北条氏編 …
伊勢船之兵粮津端■■■■用候、此替安藤不可有之儀■■■■候、請取可申候、若又売可申此趣様ニも安藤相談、此度可走廻依時宜、木折銭永代可有免許者也、仍如件、 辛酉 三月十八日 伊勢 廻船中 問屋中 →戦国遺文 後北条氏編 …
遠候之儀大藤・清水両人ニ任候、其外之衆一騎一人も出ニ付而者可申越候、検使可為布施佐渡守、此掟妄ニ付而者可為曲事候、恐々謹言、 十二月十八日 氏政(花押) 清水太郎左衛門殿 布施佐渡守殿 大藤式部丞殿 杉山周防守殿 →戦国 …
卅人之足軽衆、十騎宛三番ニ積、中三日用意ニ而、西入へ罷越、新井如申可走廻、少も横合非分之儀、自今ニ入耳ニ付者、可成敗者也、仍如件、 丑 正月十五日 三山 奉之 野上 足軽衆中 →戦国遺文 後北条氏編「北条氏邦朱印状」(逸 …
史料の検討から大藤隊が約500名で構成されていたと確定した。とはいえ、軍記や講談、一部書状内での内容から「戦国の軍隊は千~万単位で機能していた」という概念から考えると、精鋭の足軽衆が500名というのは少な過ぎると思われ …
御直札被下候、謹而奉拝見候、仍武田信玄被除候付而、早速御迎雖可被進置候、信玄無相違被除候付而、敵之動之様子見合、其上御迎可被進置段ニ付而、只今迄被致延引候、内ゝ拙者事申請候而、此度候間、御迎ニ可馳参覚悟候処ニ、信玄自身相 …
知行方之儀、如先代為不入進候、於公私之内も別而頼母敷思召候間、可被守立事、専一候、我ゝ若輩ニ候之間、如此候、粉骨尽就走廻者、弥ゝ可引立候、為後日仍如件、 永禄四 辛酉 年 二月吉日 氏朝(花押) 江戸彦五郎殿 →-戦国遺 …