武田晴信、佐野主税助に今川領国の状況報告を命じる
以幸便染一筆候、仍遠州之体実儀候哉、無是非次第ニ候、駿州之内彼方之調可然様候て、過半駿之内可相破様ニ候者、早々可致注進、此表者焼動迄之事候条、以夜継日急ニて可納馬候、又遠州者心替候へ共、駿州衆各守氏真前、自元三州之備も氏 …
以幸便染一筆候、仍遠州之体実儀候哉、無是非次第ニ候、駿州之内彼方之調可然様候て、過半駿之内可相破様ニ候者、早々可致注進、此表者焼動迄之事候条、以夜継日急ニて可納馬候、又遠州者心替候へ共、駿州衆各守氏真前、自元三州之備も氏 …
就高森之儀、■■■預御飛脚候、祝着存候、諸口御味方相調、城中堅固之由肝要候、晴信駿州へ入魂之事者、可有御存知候歟、若高森之城尾州・井口へ有御渡者無曲候、其御分別尤候、猶自甘利藤三所可申候、恐々謹言、 追而、御用之子細候間 …
去年九月十日向梅坪相動之刻、於鑓下弓仕敵数多手負仕出、無比類之旨各以連判注進、神妙之至也、守此旨弥可忠軍忠之状如件、 永禄四年 八月廿六日 氏真(花押影) 鱸新三左衛門尉殿 →愛知県史 資料編11 「今川氏真感状写」(伊 …
尾上彦太郎跡職之事 右、去年五月十九日、兄彦太郎尾州一戦之刻致天沢寺殿供無比類遂討死、為忠節之跡候間、知行以下任先判形之旨不可有相違、次ニ長増寺之事、山林竹木等如前々可為地頭計也、其上用水・井溝等之事、是又可為如先規、若 …
旧冬三州武節谷へ遣士卒砌、別而被挊之由候、忠信無比類、猶以戦功可為肝要候、恐々謹言、 弘治三年正月二日 晴信 御朱印 下条兵部少輔殿 →戦国遺文 武田氏編「武田晴信感状写」(下条由来記) 前の冬に三河国武節谷へ兵員を派 …
今月朔日、簗瀬九郎左衛門令八桑江其行、城廻小屋五六十放火、敵四五十人討捕之旨感悦、於度々如此候段神妙也、弥可抽戦功之状如件、 永禄三年 十一月十五日 氏真判 原田三郎右衛門殿 →静岡県史 資料編7「今川氏真感状写」(紀伊 …
定 一先年依忠節被充行知行之事 一於田峯郷所務仕来人夫銭之事 右之条々、天沢寺殿判形数通任明鏡之旨、永領掌不可有相違、彼印形者為継目之筋迄之間、可申子細於有之者、以先判可申改也、然者去五月十九日於尾州一戦之刻、武節筋堅固 …
就本多助太夫進退困窮、吉田蔵入之借銭、令訴訟之条免許之処、以其引懸、自余之供銭徳政之沙汰申触之由、自由之至也、任証文令催促、可請取之者也、如件、 永禄三年 十月十日 岩瀬雅楽助殿 →愛知県史 資料編11 「今川氏真?判物 …
父和泉入道身上之事、先度子細雖相尋、猶以無疎略之旨、以罰文申上走朧段、明鏡之略申趣聞届候条令赦免畢、守此旨兄弟別而抽奉公之状、仍如件、 永禄三年庚申 十月十日 氏真判 岩瀬雅楽助殿 →愛知県史 資料編11 「今川氏真判物 …
1561(永禄4)年3月に、後北条氏は越後方を主力とする軍勢の攻撃によって本拠地小田原を攻囲されるという危機に見舞われた。後に、北条氏康は「左衛門大夫が不在で兵が集まらなかった」とコメントしている(北条氏康書状がポイン …