伊達政宗に1,000通を超える自筆の書状があったというのは初耳だった。その中から印象的なものをえり抜いて紹介しているのが『伊達政宗の手紙』(佐藤憲一著・洋泉社MC新書)である。
著者は仙台市博物館長だった人物で、政宗の書状に関しては第一人者。文献の持ち味は実物にあるとの考えから、現代文・原文のほかに、書状の写真も掲出している。原文と現代文が併記されている点から、かなり勉強になった。
紹介している書状の筆頭は片倉景綱に当てた「自分の子供を殺すと聞いたが、とにかく思いとどまってくれ」というプライベートなもので、「堅苦しい古文書」という先入観を払拭したいという著者の気遣いが感じられる。このほかにも、死んだ部下のことをその父親に告げられず苦しむ文面、異国で書いた母への手紙、息子を過保護にしたと反省する書状などなど、一人の人間としてもがく姿を、文書の解説を通して明快に描いている。
しかし1,000通も自筆というのは物凄いことだと思う。そういえば、北条氏照が片倉景綱に「おたくの殿様からうちの殿様に書状が来たのはいいけど、添え状がないのはどうかと思う」と苦情を送っていた。手紙魔政宗の面目躍如というところか。
新書にしてはお高い1,800円だが、その価値は充分にあると思う。
高村さま
さすが氏照どの。きちんとしているというか、用心深いというか。言われた政宗公はどう思ったのでしょうか。「あいすまぬ」と思ったのか、「ちっ、いちいち細かいヤツだな」と思ったのか。
コメントありがとうございます。この氏照の部分は『戦国時代年表 後北条氏編』からの引用で『伊達政宗の手紙』とは関係なかったりします。紛らわしくてすみません。
ご質問の件ですが、恐らく後者「細かいことを言うな」だったと思われます。『年表』では、氏照から「取次役」をきちんとしてほしいとのリクエストが他に2度ほど出ていますので……。伊達家と後北条家は2代前から書状のやり取りはしているので、政宗と景綱、氏照の組み合わせで特殊発生しているようです。
どのような意味を持つかはまた色々と考えてみます。
こんばんは。またまたお邪魔します。
政宗が手紙魔だったというのは、驚きです。さしずめ今でいえば、メール魔のようなものでしょうか?あの時代は、公式文書は祐筆に書かせていた時代ですから、自筆のお手紙というのには、心ひかれるものがあります。しかも、書状の写真付きとのこと。ぜひ、入手したい本です。
先のコメントでの旱魃であったとのお話は、興味深かったです。そのこともあったから、徳川家康も反乱を起こせたんでしょうか?そうでもなければ、なかなかあの時点では、難しいことのように思っていましたので・・・。
コメントありがとうございます。政宗の書状が多く残されているのは、彼が生きた年代にも理由がありそうです。後北条氏でも、天正に入ってからのほうが多く書状が残されており、年代を遡るほど、文書の残存率は悪くなっています(単に書状発行が不活発だった可能性もありますけど)。ちなみに、Googleの画像検索で「政宗・書状」と入れると、ネットでも筆跡が見られますよ[にこっ/]
家康の逆心(謀叛)は、「3年越しの異常気象で西三河の人心が新しい統治を求めていた」という事由も影響していると思いますが、彼が岡崎にいたという要因が非常に強いかと判断しています。逆心が発生するのは翌年4月12日で、この頃には岡崎西方の挙母領(現在の豊田市)は今川方ではなくなっていました。そして、元々岡崎に地盤を持つ家康は城内の人質を確保しつつ根回しして、東三河の牛久保を急襲します。
ここで謎なのが、本来は今川方直属の城番が置かれる筈の岡崎に、なぜ家康がいたのか、という点です。この辺は改めて記事をエントリーしたいと思います。