駿・遠両国内知行勝間田并桐山・内田・北矢部内被官給恩分等事
右、今度於尾州一戦之砌、大高・沓掛両城雖相捨、鳴海堅固爾持詰段、甚以粉骨至也、雖然依無通用、得下知、城中人数無相違引取之条、忠功無比類、剰苅屋城以籌策、城主水野藤九郎其外随分者、数多討捕、城内悉放火、粉骨所不準于他也、彼本知行有子細、数年雖令没収、為褒美所令還付、永不可相違、然者如前々可令所務、守此旨、弥可抽奉公状如件
永禄三 庚申 年
六月八日
氏真(花押)
岡部五郎兵衛尉殿
→豊明市史「今川氏真判物」(岡部文書)
「駿河・遠江国内の知行、勝間田並びに桐山・内田・北矢部のうちの被官控除分のこと」右の所領は、今度の尾張での一戦で、大高と沓掛が捨てられたのに対して、鳴海を堅固に守備し、大変な働きした。とはいいながら作戦上どうしようもなく、結局私の指示があって撤退となったが、城中の人間を全員間違いなく撤収させている。忠節は比べるものもない。その上、刈谷城で計略を働かし、城主水野藤九郎その他たくさんの人間を討ち取り城内全てを焼き払った。この働きは他と比べられるものではない。あの本領は事情があってここ数年没収となっていたが、褒美として相違なく返還する。前々からの領地を守り、いよいよ勤務に励むように。
初めまして。
名古屋盲人情報文化センターで音訳ボランティアをしています。
利用者の方から豊明市史の資料編の音訳を依頼され、10人ほどで分担して現在録音中です。
332ページの氏真から岡部五郎兵衛へ宛てた感状が音訳担当部分にあるのですが、
漢文を読み下すのにこのページも参考にさせていただきました。
担当部分と上記の漢文に2,3箇所食い違いがあるのでお尋ねします。
「勝間田并桐山内田北矢部之内」担当部(332ページ)では桐山が相山となっている。
宛名の「岡部五郎兵衛尉」が「岡部五郎兵衛」(尉はない)
「永禄三 庚申 年」 が「永禄三 庚申六月八日」
資料内にも何箇所かこの感状が掲載されており、それぞれ微妙に違うので引用された部分が違うのだと思いますが、最初の「桐山」に関しては勝間田城の近くに「切山」という地名があり、こちらが正しいのではないかと思います。
ご意見をお聞かせ下さい。
資料の見直しを行なった際、引用書面と文字列が異なっていたため訂正した。以前の文章は下記に残しておく。豊明市史ではないものの、どの資料に当たるかは不明。
『駿遠両国之内知行勝間田并桐山内田北矢部之内被官堪忍分等事』
右、今度尾州一戦之砌、大高沓掛両城雖相捨、鳴海堅固ニ持詰候、甚以粉骨之至也、雖然依無通用得下知城中人数無相違引取之條、忠切無比類、剰刈谷城以籌策、城主水野藤九郎其外随分者、数多討捕、城内悉放火、粉骨不準于他也、彼本知行有子細、数年雖令没収、為褒美所令還附、永不可相違、然者如前々可令所務、守此旨、弥可抽奉公状如件
コメントありがとうございます。ボランティアのお役に立てているようで、とても嬉しく思いました。
さて、懸案の史料を豊明市史資料編と見比べてみたところ、何点か異なる表記がありましたので修正しています(以前のものもコメントとして残しました)。
「桐山」が「相山」になっていた件ですが、今回の修正点では見当たりませんでした(以前に修正したような記憶はあったり……曖昧ですみません[いやー/])。くずし字になると、「桐山」と「相山」は誤写し易そうです。おっしゃるとおり相山は誤写で切り捨てて構わないと思います。
実はこの書状、写しが岸和田岡部氏に伝わっています。本状を持っている水戸岡部氏から借り受けて写したようです。ただ、この写本は余り出来がよくないそうです(『戦国静岡の研究』清文堂出版)。恐らくこの写本と原本が2系統をなしてしまい、どちらを引用したかで異同が出ているのかと思います。
その他お気づきの点やご質問などありましたら、何なりとお寄せ下さい。
早速のお返事有難うございます。
歴史の素養も漢文の素養もなく、利用者さんから依頼があった本を音訳するので、いつも読みには非常に苦労をしてます。
とはいえ、知らなかった知識に触れることが出来るのも面白いところです。
名古屋市内に住んでいて熱田神宮にも参拝しますが、桶狭間の合戦と熱田神宮のかかわりについての話など、非常に興味深いものがありました。
また、お尋ねにお邪魔することがあるかもしれません。
よろしくお願いします。
暑さに向かいます折からご自愛下さい。
お久しぶりです。
ちょっとお尋ねしたいことがありまして、コメントさせていただきます。
こちらの史料に、「彼本知行有子細、数年雖令没収」とありますが、この没収の背景などお分かりになりますか。別の史料「武田晴信、岡部元信の武功を顕彰する」では、通りがかりの者さんとすごい議論をしておりますが、そこに「武田氏のもとに滞在していたからだと考えると諸々腑に落ちると考えています」と述べておられますね。ここで「滞在」という言葉を使っていますが、実態は今川から退去という理解でしょうか。
例の談議で触れたいと思っておりますので、よろしくお願いします。
コメントありがとうございます。サイトでのご説拝読しております。
「滞在」については、甲斐武田氏の下に『牢人』または『無足』と言われる待遇だったと推測しています(これに類する例は多いので)。この処遇に至ったのが自発か他発かは不明です。今川家を辞したのが氏真への代替わり直後と思われることから、政権交代期の今川氏が強権を発動させることは考えづらく、元信が出奔した可能性のほうが高いと思われます。
以上ご参考になりましたら嬉しく思います[にこっ/]
高村さん、ご返事ありがとうございます。
高村さんの目配りは広範囲に深く及んでいますので、大変参考になります。「武田晴信、岡部元信の武功を顕彰する」などをみて「出奔」かなとは思いながら、自信が持てなかったのですが、この理解でよいようですね。
またお尋ねすることもあるかと思いますが、その節はよろしくお願いします。